一口法話

わがこととして 浄土宗カレンダー令和元年十二月のことば

昨年佐賀県に自衛隊のヘリコプターが墜落しました。

現場近くにお住まいの主婦さんが「今まで沖縄の米軍ヘリの墜落事故を『よそごと』と思っていたが、『もしうちに落ちていたら』と考えると、もうそうは思えない」と正直な気持ちを吐露されました。

災害に代表される人生におけるさまざまな苦しみは、自分や自分の周りに起こらないとなかなか受け止められないのが私たちであります。

 

対しまして、お釈迦様は病で臥している人、老いて思い通りに体が動かない人、命が尽きた人に遭遇した時に衝撃を受けられました。

それは他人事ではなく「自分の身にも将来必ず同じ苦しみが降りかかるのだ」と我が事として受け止められたからです。

そして同時に周りの人がそれらの現実を見ようとせず、目先の快楽に耽っていることに憂いを覚えたのです。

だからこそ自分のだめにも他人のためにも、この逃れられない苦しみの中でどうやったら幸せになれるのかを模索して修行を重ね、悟りを得ることができたのです。

そして他人に対して、様々なアプローチ方法で幸せになる道をお示しになられたのです。

その根底にあることはまさしく、「わがこととして考える」です。その代表的なお言葉が左記です。

『すべての生き物にとって命は愛しい。己が身にひきくらべて殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ』

 

私たちはまず自分の命に執着していることを確認して、そして他人も皆同じように考えていることに思いを馳せます。

自分がその大切にしている命を傷つけられることは苦しいのと同様に、他人も傷つけられることは苦しいのです。

その考えに至ることによって他人を傷つけることが減り、自分も他人も幸せになることができるのです。

また遠くの地域で起こっている災害に対して、過去に自分の地域でも見舞われこと、もしくは「将来、自分の地域でも起こるかもしれない」と思いを巡らして被災地のことを気にかけることも大切ではないでしょうか?

あるいは連日のように新聞を賑わせている凶悪な事件について、ただ単に加害者を糾弾するのではなく、「自分も同じ立場であれば罪を犯してしまうかもしれない」と自分の心を覗いてみることも時には必要かもしれません。

新年を迎えるにあたり、まずは何事も「わがこととして」共に考えてみませんか?

 

 

称えるなかに仏のまなざし 浄土宗カレンダー令和元年十一月のことば

この夏、洞窟ツアーに参加しました。普段は真っ暗な鍾乳洞の中を恐々歩きながら、ヘッドライトに照らされた世界を見て感動をいたしました。長い年月をかけたもの、 キラキラ輝いたもの、ロウソクのようなものなど沢山の種類の鍾乳石や見慣れない生き物等が見ることができて、いろんなことに気づくことができました。

 

どんな世界でも常に新しい発見、気づきがあるものです。仏教もまた然りです。

お寺の本堂に鎮座されています仏様のお顔を拝見しますとお気づきになることがございませんか?仏様はいろんな特徴がございますが、その一つはまなざしであります。眼を開けているような、閉じているような、いわゆる半眼の状態であります。

これは内外相観(ないげそうかん)と申しまして、半分は外の世界を見て、半分は自分の心の中を常に見続けているお姿を現しています。その能力は私たちに欠けている部分でもあり、私たちは目の前にある外の世界を欲の眼で見ていますが、なかなかその欲にまみれている自分の心は見えていないのかもしれません。私たちは目に見えるものや他人の持っているものを必要以上に欲し、時には他者を傷つけています。

例えば他人からの評価を気にして、施設が損傷するような写真や食べ物を粗末にする写真を撮ったりしています。自分の思い通りにならなければ、例えばあおり運転のように怒りに任せて相手を威嚇します。インターネット上で自分の正当性を主張して相手を糾弾する事も多々あります。今までそんな罪を犯していないかもしれませんが、何かのはずみで感情が爆発して罪を犯してしまうお互いではないでしょうか?

自分が新聞記事をにぎわす当事者にならない保証はどこにもないのかもしれません。そんな心の闇をもった自分自身に気づくことが幸せへの一つの道です。そしてその気付きを与えてくださるのが仏様のまなざし、つまり慈悲の光です。

光が差し込むことによって部屋のほこりに気づくように、仏様のまなざしによって、自分が自分自身の欲に振り回されていることに気づくのです。 

 

 自分の愚かさに気づいたからと言って、欲が無くなるわけではありません。だからこそ、常に「南無阿弥陀仏」(お救いください、お慈悲の光をください)とお唱えすることによって、後の世は仏様が救い取っていただくことはもちろんのこと、この世は仏様と共に少しでも心穏やかな日々が送れるのではないでしょうか

 

光明徧照 浄土宗カレンダー令和元年十月のことば

私はお寺の息子に生まれ仏縁に恵まれながらもお釈迦様の教えに受け止めれずにいました。

故に大学では語学を勉強して、僧侶の資格は取得したものの、語学を生かすべく一般企業でしばらく勤めていました。

しかし縁が整ったのか、自坊にて十二年ぶりに五重相伝(お檀家さんへ浄土宗のみ教えを相伝する一大行事)を開(かい)筵(えん)することとなった平成十八年にお寺に戻り、五重相伝の準備として、東京の増上寺にて一週間の修行をさせていただきました。

着方を忘れてしまった法衣に身を包み、久しぶりにお経を読み、毎日の勤行や座学に励むことに新鮮さと共に悦びを感じることができました。

そのなかで一番最初の朝のおつとめにて東京タワーを背にした増上寺の本堂に入らせて頂いたときのことはいまだに脳裏にやきついています。

度重なる火災等の苦難を乗り越えたものの先の戦争で無に帰した増上寺は、たくさんの有縁の方が尽力して再興されました。

故に一見、近代的で無機質な造りと感じますが、天井が高く、無駄なものが一切ない広々とした空間の真正面に鎮座しているご本尊阿弥陀様のお姿がより強調され、私たちとは全く違う絶対的なものの存在を感じることができました。

そしてその内陣にて、お経、お念佛をお唱えしているときに、対峙する阿弥陀佛様の光輝いたお姿を拝したときに 何か言葉では表現できない感動がこみ上げ涙が頬を伝わったのです・

 

「光明徧(こうみょうへん)照(じょう)」 とはお釈迦様が説かれた『観無量寿経』中のお言葉で、その後に「光明徧照十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と続きます。

意味は「阿弥陀様のお慈悲の光はあらゆる世界に住むどんな人にも降り注がれています。 そしてそのお慈悲の光に気づいてお救いください阿弥陀様の思いでお念佛を申す人は必ず見捨てることなくお救い取ってくださる」ということです。

そのあとに「佛身を観ることを以って仏心を観る。 佛心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって諸の衆生を摂する」とお釈迦様は説かれています。

つまり、佛様のお姿を観ることは佛様の心を観ることなのです。

そして佛心とは大いなる慈しみ、自分や他者の苦しみを取り除き、自分や他者に喜びを与える心です。

大いなる慈しみとは男女、貧富、地位、罪の大小を問わずどんな人でも分け隔てなくお救いとってくださることです。

 

私は増上寺の阿弥陀様を拝顔して、佛様のお慈悲に触れることができました。

親や周りの方々の期待に沿えず、その方たちを悲しませてきた私を、佛様はずっと見守ってくださっていました。 

「仏様はずっと私をお待ちくださっていたのだな」そう無意識の内に心と体で受け止められたからこそ涙が溢れたのだと思います。阿弥陀様やお浄土におられる先立ちし人たちが常に私を見てくれていると感じることによってこの世を力強くできるだけ善き道を歩んでいけるのではないでしょうか

 

まごころのおすそわけ 浄土宗カレンダー令和元年九月のことば

『ペイフォワード』という小説があります。

「世界を変える方法を考え、それを実行しよう」という社会科の先生が出した課題に対して、主人公のトレヴァーは、誰かに受けた親切をその人に返すのではなくて他の三人に親切をするという「ペイイットフォワード(次の人に支払う)計画」を考えました。

そして実際にトレヴァーは三人に親切をして、その三人がお返しをしたいと思い、新たに別の三人に親切をしてその善縁が広がり、多くの人に幸せをもたらしたのです。

 

 人に親切をすることをお釈迦様は「布施」としてお示しです。

九月には秋のお彼岸がございますが、一週間の彼岸期間中、特に意識する六つの仏道修行の中で最初に示される仏道修行が「布施」です。

自分のもっているものの一部を他の人に施すことによって、他人が幸せになること以上に、自分の執着心がちょっとでも減るので自分が幸せを感じることができるのです。

さらには先述のトレヴァーの行為のようにより多くの人に施しの輪が広がることによって、巡り巡って誰かがまた自分に対して施しをしてくれるのです。

 

施すものは何もお金やモノに限りません。

寧ろ昨今、大半の人が余裕のない生活をしている中で金品をお分けすることは難しいかもしれません。物質がなくても、誰もが施せるもの、それは真心です。

 

真心(まごころ)とは偽りのない心や誠意を表すと同時に「誰かの役に立ちたい」という仏様の慈悲心を指します。

お釈迦様のお姿やお言葉を通じて、お釈迦様のまごころに触れ、自分なりに受け止め、そしてそのまごころを他人におすそ分けをしていくのです。

 

お釈迦様がお示しくださった「年長者を敬いなさい」「優しい言葉をかけなさい」「穏やかな顔を向けなさい」「他人の犯した過ちを許しなさい」「他人が苦しんでいることに目を向けなさい」などの心がけは誰もができることであります。

そして自分自身がこれらのことを他人から施されると、幸せな気持ちになり心が柔らかくなり、その人への感謝の念が沸き上がるとともに、自分も他人に対してそうありたいと思えるのです。

 

 私自身、乗車していたバスが事故を起こしたり、阪神淡路大震災に遭遇したり何度か大きな困難に遭遇しましたがその都度、たくさんの人から真心を頂戴いたしました。その経験によって、自分も他人に対して何かしらの役に立ちたいと思うようになりました。この九月に関東地方を大きな台風が襲い、今もなお多くの人が不便、不自由さの中での生活を強いられています。

私は昨年近畿地方での台風被害を思い出し、たくさんの人から励まされたことを思い出すとともに、今被害に遭われている方に対して思いを掛けて、また自分自身ができる施しをしていきたいと考えています。

誰もが災害に遭い、事故に遭う可能性があり、間違いなく老いや病や愛する人との別れや死を経験していかねばなりません。

それらの苦しみを共に支え乗り越えていくために真心を育て、おすそ分けできる社会になればいいと願っています。

ここにいるよ あなたを想っている 浄土宗カレンダー令和元年八月のことば

父は生前、境内でたくさんの水連鉢にてメダカを飼って一生懸命世話をしていました。

父の死後ほったらかしにしていたのですが、最近になって私もメダカの世話をするようになりました。

やりだすと大変面白いもので、日々の成長やまた卵が孵化するのを楽しみに眺めるようになりました。

めだかはホテイアオイ等の水草に産卵しますが、卵を見つけた時点で水草ごと他の水槽に入れる作業をしなければいけません。

なぜなら孵化した稚魚を親メダカがえさと間違えて?食べてしまうからです。何回かその光景を見たことがあります。

自然の摂理とは言え、自分が生んだ子を食べてしまう動物の習性を残念に思う一方で自分がそういうことをしない人間に生まれたことを有り難く受け止めることができます。

 

人間は他の動物にはない「想像力」を持っています。

動物のように目先の出来事だけに執着するのではなく、見えないものを感じとり、未来を想像することができます。

こんな素晴らしい能力を持っているのに、時代を経るにつれて、その能力を使いこなせなくなりつつあるお互いではないでしょうか?

未来を見据える想像力が働かない故に、思い通りにならなければすぐに怒り、後先考えず行動したり、誰も見ていないところでは、規律を破ってしまう自分がいます。

 

そうならないために今一度、想像力を働かしてみて、まずは「必ず誰かが私のことを案じてくれている」と自分に言い聞かせることを共々に心がけてはどうでしょうか?

 

その中で一番の拠り所とすべきは必ず私たちを見守ってくださる阿弥陀様やお釈迦様に代表される仏様であります。

私たちが自分自身の至らなさに気づき、仏様におすがりすれば必ず手を差し伸べてくださります。

 

次に私たちを見守ってくださる方は何と言っても自分を生み育ててくれたご両親や兄弟、家族、有縁の方々であります。

「遠く離れていても父母、兄弟、友達は自分に気をかけてくれる」と思えば、自ずから行いも変わってくるかもしれません。

たとえこの世にいる父母や近しい人がそれぞれに生活の余裕がないなどの事情で自分を想ってくれてなかったとしても、先立ちし人は必ず見てくれています。

なぜならば仏様の国に生まれたその方たちは自分本位の思いが消え、他人を慈しむ心で満たされるのです。

だからこの世ではもしかしたらそりが合わなかった人でも、お浄土に生まれた後は「娑婆世界では自分のことで精一杯であなたには申し訳ないことをしたね。これからは必ず私があなたを見守り、悪い縁にあわないようにするからね」と慈しみの光を降り注いでくださいます。

 

 「必ず仏様やご先祖様が想ってくれている」と強く感じるために、ひとつはもどうぞ観光寺院、お近くのお寺、またはお仏壇にお参りして、仏様のお顔をじっと御覧になっていただき、お位牌に手を合わせていただければ大変有難いことです。

 

そして二つ目にできることは、私たちも誰かのことを想うことではないでしょうか?

その心がけが巡り巡って誰かが自分を想ってくれるのだと信じています。

 

善き行い 善き心 浄土宗カレンダー令和元年七月のことば

自分はつくづく煩悩と呼ばれる自己中心的な欲に振り回されている人間だと思います。 思い通りにしたいが故に配慮に欠けた言葉を相手に投げる、 思い通りにならないからストレスが募り、それを解消すべくお酒の量が度を超える、 そしてそのことによって余計態度が傲慢になり、相手を苦しめて、分かり合えた友とも疎遠になっていく、その悪循環を繰り返してきました。失敗するたびに「心を入れ替えよう」と決意するけどなかなか改善しなかった経験は皆さんもございませんか? 

 

「諸々の悪い行いを止めて 諸々の善を行い 心を清くすること

これが諸々の仏の教えである」とお釈迦様はお示しです。

唐代の代表的な詩人である白居易が名僧の道林禅師に「仏教の要とは何か」と尋ねたところ、道林禅師は先述のお釈迦様の言葉をお答えになられました。

その答えを聞いた白居易が単純な答えだと思い

「そんなことは三歳の子供でも知っていますよ」と言い返しました。

道林禅師は平然と次のように応えられたのです。

「確かに三歳の子供でもこの道理は知っている。しかし八十歳になってもこの道理に従って生きることは難しい」

 

知識として「悪いことはだめ、善いことをしなさい」と知っていても、実際は「わかっちゃいるけどやめられない」のです。それだけ煩悩というものは底知れない力をもっているのです。

だからこそ煩悩多き心を小さく清くするためには、まずは外面を善くする、つまり、心と裏腹でも意識して善い行いを繰り返していくことが仏教の第一歩なのです。といっても心がそう思えていないのに、相手に笑顔を見せたり、優しい言葉をかけるのは難しいかもしれません。私自身も心の浮き沈みが激しいからなかなか善行を実践できず、悪態ばかりついています。そんな中で私の出来ることとして、日中はできるだけ僧衣を着て過ごすようにしています。なぜならばそのことによって、仏様や他人の心を慮るようになり、心が前向きじゃなくても善き行いがしやすくなるからです。そしてその繰り返しによって本当に微々たるものですが少しずつ心が穏やかになっていく気がしています。

 

「善い行いを続ければ、心が穏やかになり将来の自分は必ず何かしらの善い報いを受ける」と信じて、何らかの工夫をしながら自分の出来る範囲で悪を止め、善を修することを共々に心がけませんか?

 

ひとつひとつ 命輝く 浄土宗カレンダー令和元年六月のことば

いま自分の命が輝いているかと考えた時に、他人の評価をどうしても気にしませんか。

今は誰もがネット上に自分が撮った写真や自分の文章を載せることができ、他人から「いいね」と称賛をもらうことによって、自分の存在意義を実感するのかもしれません。

 

「いいね」の数を競っている社会で生きている学生の投稿に興味を持ちました

ある中学生女子の投稿 

自分の書いた絵を投稿して周りが見てくれて「いいね」をしてくれることによって自信を持てる。でも人は嫉妬心がうまれるもので上手な絵や人望で「いいね」をたくさんもらっている人を見るとうらやましくなる。

ある小学生女子の投稿

「いいね」の数を争っていて、多い人が人気者になれるけど 一人ひとり基準がちがうから争っても意味はない。 友達の中に「いいね」の数を気にしすぎて暗くなってしまった子がいる 「いいね」が増えないと悩んでいる 「いいね」の数で人生を生きている気がした

 

他人の評価というものはもちろん大切である一方、人の価値観はあてにならないのも現実です。価値観も多様だし、時代や国、環境によっても変わってくるのではないでしょうか。私が一番大切にしているのは、すべてを悟られたお釈迦様や仏様の世界で生きている先立ちし人のまなざしです。この思い通りにならない苦しみの世界において、もがく自分に眼を背けず、自分をも他人をもできるだけ傷つけず喜びを与えていくことがその方たちの御心に沿っているのではないかと私は受け止めています。

そう考えますと、例えば注目を浴びたいがために、動物であれ他者の命を粗末にする人の命は輝きを失うでしょうし、逆にどんな立場であっても他者の輝いている命を大切にする人の人生は輝いているのではないでしょうか?

 

東日本大震災当時に募金活動している時に、ある男性にご寄付頂いたことを思い出しました。

「自分は大病を患って、職を失って今生活保護を受けています。死にたいときもあるけど、被災されて大切な人を失いながらも一生懸命生きている人たちを見て、自分なりに精一杯今生きています。どうぞなけなしのお金ですが、被災地に贈ってください」と震える手でお金を募金箱に入れられました。

私自身も当時を振り返りこの男性のようにもっともっと命を輝かせたいと改めて強く思いました。

 

 

欲知足 浄土宗カレンダー令和元年五月のことば

昨今、大手コンビニの労使問題を一例として、二十四時間営業の是非が問われています。私たちのニーズに応じるために現場で働いている方々の精神的、肉体的負担は相当なものだと思われます。一方で利用する側は、いつでも空いている利便性が捨てがたく、また夜のコンビニの明かりは防犯面からも落ち着くものがあります。私自身、コンビニの明かりだけではなく、街の明かりが煌々と輝いていると夜の闇に心細さを感じていた心が晴れやかになる時があります。

 

ブータンの国家研究機関に従事するカルマ氏が近代化された都会に住む若者を危惧してこう仰っています。「彼らは完璧な暗闇を知りません。人間が眠る夜には完璧な暗闇が必要です。あるいは未開の土地、澄んだ空気も精神的に発達するためには必要です。はっきりした考え方をもつには静寂も必要です。自然のない都市部に住む多くの人はその静寂を経験したことがありません」

 

たしかにスマホに代表されるように便利になればなるほど物事を考えたり想像する力が衰えていくのかもしれません。ある程度不便さの中に身を置けば、心が研ぎ澄まさせるかもしれません。

 

コンビニの話に戻りますが、以前イギリスのロンドンに行く機会を頂きました。多方面の分野で日本がモデルケースとして位置づけしているイギリスだからさぞかし進んでいる国だと思っていましたので、日本で言うところのコンビニが見当たらないことに驚きました。その代わり、昔ながらの個人商店が至る所にあり、大抵十一時頃に閉店することに却って、新鮮な感覚に陥るとともに、幼少の頃を思いだすことができました。最初は不便だなと思いましたが、慣れてくると不便さの中で、食事や買い物のタイミングであったり、健全な一日を過ごす工夫や普段思いを巡らせていない事柄を考えることができ、夜もしっかりと睡眠を取ることができました。その時に先ほどのカルマ氏の言葉を少しだけ実感することができました。

 

 

お釈迦様は「たとえ金貨の雨を降らすとも 欲望が満足されることはない。快楽のときは短くあとに残るのは苦痛である」と仰いました。食べれば食べるほど、胃袋が大きくなるように、私たちの貪り欲も、手に入れれば入れるほど増殖する危険性があります。手に入れた時はひとときの快楽を得ることができますが、欲望の器が大きくなった分、不平不満を感じ苦痛を味わう可能性も高くなります。ではどうしたらよいのでしょうか?

 

生きる上で必要なものもたくさんありますが、本当にそれが必要かをその都度考えていくことが大切かしれません。「もっともっと」ではなく「十分だ」と思い、足るを知ることによって、生きる智慧がつき、我欲がわずかながらでも小さくなっていくのです。その行いをお釈迦様は「小欲知足」とお示しです。それがこの命も物質も有限で思い通りにならない世界において幸せに生きる一つの方法であり、消費社会のスパイラルに巻き込まれない道ではないでしょうか

 

 

新たな出会い 善き縁に 浄土宗カレンダー平成三十一年四月のことば

「まことに、人間の遭遇ほど味なものはない」

 少年期に三度の自殺を図り、柳田國男氏との知遇を経て民俗学の基礎を築いた折口信夫氏の言葉です。新年度が始まり環境が変わるこの時期は特に新たな出会いの縁があります。

その出会いが悪い縁なのか善い縁なのかはその時にはなかなかわからないものです。

 

昨年、オウム真理教幹部達の死刑が執行されましたが、教団の方々が入信された動機は「居場所がほしい」「やさしくされたい」あるいは「他人に対して魂の救済をしたい」という純粋なものもあったようです。しかしその教団との出会いは結果的に悪い縁となり、結末は皆様のご承知のことだと思います。

 

一方でこの世では善き縁も確実に存在します。大正時代の頃、九州で土地の老人がこういう話をされました

 

「鹿児島は江戸時代に藩主より一向宗の信仰を禁じられ、もし信ずるものあれば罰金や時には首をはねられた。しかしその反動で住民の信仰は却って熱心なものになった。そして秘密裡に京都の本山より僧侶を請来して洞穴や土蔵の中でたびたび説教を拝聴した。その間は村の四方に見張りを張らせて藩にばれないように勤めた。自分も子供の頃は父の命に依りこの見張りをしていた。その時は詰まらぬことだと思っていたが今、考えると実にありがたい。もし自分が子供の時、同じ見張り番でも博打の見張りをしたならば、或いは博徒になったかも知れぬ 然し仏法の見張り番をした因縁で今は有り難い仏法を聞く身となり穏やかに生活している」

 

私自身も尊き善縁を頂き、お寺に育ち幼少の頃から仏法に触れることができ、紆余曲折もありながらなんとか悪い縁に遇わず今日まで過ごすことができました。しかしながらこの先もこの世で生きていく以上、悪い縁に遇わないという保証は全くありません。

 

善き縁に逢うためにはまずは自分が仏様の教えに従い、自分や他人の苦しみを抜き、自分や他人を慈しむ善い行いをすることです。一説には放火魔は手入れがされていない家に火をつけやすいと言います。私たちも悪い行いをして知らずのうちに心が荒れていくことによって、悪縁が自分に寄りやすくなるかもしれません。自分がまっとうな道を歩めば悪縁が近づく確率は減っていくのではないでしょうか。

 

それでもいろんな人との出会いは不可避です。私自身もそうですが、人間にはどうしても善の部分と悪の部分があります。他人と接する場合、今後の自分にとって善縁となる部分だけを頂戴するように心がけています。その見極めをするためにも人間を超越したお釈迦様の教えという善縁に普段から共々に触れませんか?

 

よき友に交わる人はおのずから 身の行いも正しかりけり

 

 

寒さ超え 山笑う頃 春彼岸 浄土宗カレンダー平成三十一年三月のことば

「休眠打破」と言う言葉があります。

もうすぐ咲くであろう桜の花芽は前年の夏に形成されますが、その後生成されることなく休眠状態に入ります。

休眠した花芽は一定期間低温にさらされることで、眠りからさめ、開花の準備を始めます。これを「休眠打破」といいます。

そして、春をむかえ、気温が上昇するにともなって、花芽は成長して、生成のピークをむかえると「開花」することになります。

 

 

さくらの花が綺麗に咲くためには寒さが必要であるように、我々は思い通りにならない経験を重ねることによって、より輝きに満ちた人生を歩めるのではないでしょうか?

もちろん苦しみがない人生を過ごすことが最善ですが、お釈迦様はこの人間界も含めた六つの世界を『堪忍土』とお示しです。

つまり私たちが自分の思い通りにしたいという心を棄てない限り、思い通りにならないことばかりのこの世は耐え忍ばなければならない世界ということです。

私たちは「いつまでも健康でいたい、災害に見舞われたくない、愛する父母、伴侶、子たちとずっと一緒にいたい、逆に憎い人と一緒に居たくない、病気になりたくない、求めているものを逃したくない、そして死にたくない」という思いで日々過ごしていますが、現実は真逆の事が起こることは必然であります。

この「思い通りにならない」ことに直面した時に、幸せの形をどこに求めていくかで未来が変わっていきます。思い通りにならないからといって、ますまず我欲のまま生きれば、結果的に多くの人を傷つけ、信用を失い不幸になるかもしれません。

だからこそ欲望をうまくコントロールできない私は「南無阿弥陀佛」と称え、ただただ阿弥陀様やお釈迦様におすがりして、そのお言葉に耳を傾け、仏様の御心に沿った生活することを心がけています。

 

先月、宮城県まで足を運び、東日本大震災の慰霊行事に参加させていただきました。

一日目は漁船に乗り、まだ引き上げられていないご遺体があるかもしれない南三陸町の湾にて船上からお念佛のご回向をさせて頂きました。

そして立ち合いされたご遺族の方々と共に献花およびお名号石を納めさせていただきました。

次の日は在宅被災者(家は津波では流されなかったけど、いまだに不便な生活を強いられている方)のお宅を訪れて、被災者同士でもいざこざがあることや、いまだにお風呂やトイレが直せないこと、それに対して援助がないこと等切実な思いを拝聴させていただきました。この2日間、大変有意義な時間を過ごすことができました。

改めて感じた事はいつ命が終わるかわからないことと、悩みはそれぞれ多岐にわたるけど常に苦しんでいる人は必ずいて、皆何かしらの救いを求めている、そしてそのことを忘れずに関心をもって生きていくこと、その中で自分の出来ることをできる範囲で行うことが他人少しだけ幸せにすることができ、自分もまた喜びを感じて幸せになれる一つの道だと感じました。

 

 

それでもこの世は苦しみと喜びとの繰り返しではありますが、「南無阿弥陀仏」を申して生活をしている限り、いよいよ命尽きた時には苦しみの世界、此方の岸を離れることができ、もう永久に苦しみを感じることはない彼の岸、つまり西方極楽浄土に生まれることは間違いのないことでございます。

 

 

その希望満ち溢れる未来を想像してこの春彼岸を共々にお過ごししましょう

 

水に源あり 樹に根あり 浄土宗カレンダー平成三十一年二月のことば

「望み通りの結果が出ても、思い通りにならなくても、その都度「なぜ」を五回遡って考えれば根本的な原因は見えてくる。その作業が大事だ」。

 

以前、一般企業に勤めていた時、上司から教わった言葉が今でも心に残っています。元来面倒くさがり屋で物事を深く考えることが苦手な私ではあるが、僧侶になった今でもできるだけ諸々の出来事に対して「なぜ」を繰り返すように心がけています。そして何よりも今の自分がある原因を確認することは一番重要なのではないでしょうか?なぜ今生活できているのか?なぜ仏縁に遇うことができたのか?なぜ父母のもと、人間として生を受けることができたのか?

 

きれいな水を飲めるのは水源が清浄であるからであり、立派な幹をもつ樹は根が張って養分をいっぱい取り入れているからであります。それと同じように今自分が仏教を携えて心健やかに生活できているのは沢山の良縁に恵まれたからです。決して当たり前のことではないのです。人間に生まれるには前世で五戒(無駄な殺生をしない、人のものを盗まない、不貞をしない 嘘をつかない 害のあるものをたしなまない)を守らなければいけない と言われています。その自分の善い行いのご褒美としてこの世で人として生を受けたことを有り難く思います。そして私の心と体を作ってくれたのは父母であり、私の心を育ててくれたのは父母の教育はもとより、先生やお檀家さん、周りの人の支えによるものであります。その方々の心もまた遡っていけば、仏、神、自然、家族、地域等を大切にされた先人から引き継がれたものであります。その根源を常に念頭に置いて今を生きないと明るい未来はないのではないでしょうか?

 

先月、義父が心不全でご往生されました。お正月には妻の実家にておせち料理を頂き新年の御挨拶をさせていただいたばかりで、突然の別れにただならぬ悲しみをおぼえました。

私は妻の人柄に惹かれ結婚させていただきましたが、思えば妻の現在に多大な影響を与えてくださったのは義父であったことでしょう。その義父に対して自分は十分に恩返しをできなかったことが残念でなりません。精一杯義父の追善供養をさせて頂くとともに、妻や義母を大切にしてまた義父の精神を受け継ぐことによって少しでも恩に報いることができたらと思います。

 

阿弥陀仏様の化身とされる善導大師が次のようにお示しです。

『人生ける時精進ならざれば、例えば樹の根なきがごとし』

(せっかく人界に生を受けた中で精進しないのは、根が育っていない樹のようなものです)

その根を枯れさすようなことなく水をやり続けること、水源をできるだけ清浄に保つことが私の使命です。そのことによってきれいな川、力強い樹を保つことができ自分はもとより後世の人に恩恵をもたらすことができるのではないでしょうか

 

 

 

お念佛からはじまる幸せ 浄土宗カレンダー平成三十一年一月のことば

新しい年を迎え、一月も半ばを過ぎました。

昨日と今日、卒業と入学、未成年と成人、今生と来世、物事には終わりと始まりがあるけれども 実際には「終わり」はないのかもしれません。

「終わり」と思っているものは実は「終わり」ではなくそれはひとつの節目であります。

節目の語源は竹の節とされていて、中身が空洞である竹は節があることで竹全体が支えられて、さらに伸びることができるのです。

私たちも一つ一つの出来事の終わりを、更なる飛躍の為、より幸せになる為の節目と考えたいものです。

 

 

毎年正月に行われる大学対抗駅伝で青山学院大学は五連覇を逃しました。

青学大の原監督は「この負けを糧にして組織のレベルアップを図らなければいけない。それが次の進化になる」とコメントされました。

より意味のある節目となるのは、特に、挫折を味わったり、天災人災、老い、病い、死や愛する人との別れなど人生の苦しみに遭遇した時ではないでしょうか?それもその時は節目だと考えることはできず、大抵の場合、挫折を感じ、ただただ悲しみ苦しみの中で気力なく過ごしていることが多いかもしれません。

食事もとらず一日中泣いて、引きこもり、寝て過ごす毎日かもしれません。

その時間は大切である一方、そのうちに何かを縁として、再び動き始め、少しずつでもできる行いをしていけばいいのではないでしょうか?それが後々振り返れば節目と思えると私自身実感しました。

 

 

二十四年前、私は大学生で神戸にて一人暮らしをしていました。

それまで順調と思われた人生が大学で躓きました。

留年や、ぎくしゃくした友達関係や、独りよがりの恋など思い通りにならないことが増え、ストレスを抱えていました。そんな折に大地震に遭遇して、命は取り留めたものの益々自暴自棄になり、「もう終わりかな」と考えたこともありました。

そんな気持ちで過ごしている中、二週間後に実家に戻ることができ、先輩僧侶から「倒壊した寺院のがれき撤去を手伝ってくれないか」と声をかけて頂きました。

阪神間の木造寺院はほぼ全壊であり、瓦の重みで倒壊した本堂の姿を見た時は言葉を失いました。あるお寺での出来事です。

私は指示されるがまま、がれきを撤去していましたが、先輩僧侶方は何かを探しているようでした。

ユンボで大きいがれきを取り除いて、時々途中でユンボを止めてもらい、人力で丁寧に瓦を取り除くという作業を繰り返していました。やがて「ご無事でした」という声と共に一人の僧侶の手に抱かれていた方は一部損壊したご本尊の阿弥陀如来像でした。

「ああ、阿弥陀様を探していたのか」とやっと理解できた私は、その光り輝く佛様と諸先輩の歓喜に満ちた顔を見て、不思議な感動を覚え、何か自分に希望の光を注いで頂いた感覚になり思わず手を合わせました。その行為こそが新たな踏み出しだったかもしれません。

 

 

『南無阿弥陀佛』のお念佛は、私たちと、苦しむ私たちを導いてくださる仏様や先立ちし人をつなげる大切な行いです。

思い通りにならないことを経験するたびに、休養を経て更なる力強いお念佛、そして以前よりももっと自分や人を慈しむことのできる幸せな生活を送れるのではないでしょうか。