一口法話

「南無阿弥陀仏」いまを生きる 浄土宗カレンダー平成三十年十二月のことば

今、ロックバンドのクイーンを題材とした映画が大流行しています。

私も実際に二回鑑賞して今でもその感動が継続されています。

その劇中において、ボーカルであるフレディ・マーキュリーに対して父がこのような言葉を投げかけました。「善き思い、善き言葉、善き行いを常に心がけなさい」。

それに対してフレディは「それを心がけて何かいいことあったの?」と答えました。

 

仏教ではすべては因果応報の道理で成り立っており、『善い行いをすれば喜ばしい報いを受け悪い行いをすれば苦しみの報いを受ける』(善因楽果、悪因苦果)という真理が前提とされます。

しかしあのような行いをしたが故にこのような報いを受けたという結びつきの特定は我々本人にはなかなか分からない、だから先述のフレディのような発言が出てくるのかもしれません。

 

だからこそお釈迦様は『過去の行いを知りたいのであれば、現在の果を見よ』とお示しです。

それは前世という過去において、不殺生や不偸盗などの善行を積み重ねてきた報いとして、この世では人間として生を授かり、日々生活をしているわけです。私たちが生きている今は過去の行いの積み重ねであります。

もしかしたら現在それぞれに苦しい立場にあるかもしれないけど、今、心臓が動き、考え悩むことができ、手足が動き、人と会話ができることは「有り難い」と思いたいものです。

 

そしてお釈迦様は『未来の果を知りたいのであれば、現在の行いを見よ』ともお示しです。

今だけの快楽を考えて生きるのではなく、輝かしい未来のために今の行いを確認しながら毎日を過ごしていくことが大切ではないでしょうか?

私自身も前世では守れていた「他の生き物の命を無駄にしない」「人のものを盗まない」「悪口や罵詈雑言を言わない」「お酒を飲みすぎない」等が現世ではなかなか守れていない、だからこそ善い報いを受けるためにできる限りの善行を務めていきたいと思います。

 

先ほどの映画話に戻りますが、フレディは自分がマイノリティーである孤独感を味わうなど苦悩の日々を送ります。

しかしいつしか父の言葉を体現して困難に陥っている人に対して慈しみの行いを続けていきます。

病身であるフレディ本人の悦びとなって、生きる糧となったかもしれません。

代表曲『チャンピオン』では「俺たちは王者だ 最後まで戦い続ける」という歌詞が印象的ですが、歌全体を通じて過去、色んな困難を乗り越え、そして周りにいた友のおかげで今があることに感謝して、そしてこの先も勝者として最後まで精進をする決意が表されています。

 

私たちも人間に生まれた時点で、仏様の視点から言えば勝者であります。

そして勝者であり続けるためには、まさに今「南無阿弥陀仏」と申して仏さまとつながり、仏様のお慈悲を受け、自分や人に対して慈しみのある行いをしたいものです。

 

「ぬくもり」にやすらぐ 浄土宗カレンダー平成三十年十一月のことば

 旅人の宿りせむ野に 霜降らば が子羽ぐくめ あめ鶴群たづむら

)

(旅人が仮寝する原野に霜が降ったら我が子を羽でかばっておくれ、天翔る鶴の群れよ)

 

 

万葉集に載っている右の歌は 遣唐使として渡る独り子の無事を願う母親が読まれたものです。当時は船での渡航は計り知れなく困難で命がけだったことが読み取れます。また鶴にまでお願いするくらい、母親の子に対しての限りない愛情を感じてしまいます。

 

「育む」という言葉の語源は一説ではこの「羽ぐくむ」から来ているそうです。もっと遡れば「羽ぐくむ」は「羽包む」の変形だそうです。つまり子や人を育てるということは鳥の羽で包むようにぬくもりを与え続けるということではないでしょうか?そして他人のぬくもりの中でこそ、人は心身ともに健やかに成長していくことができると思います。

 

しかし昨今は便利ゆえに他人の恩恵が可視化されない社会となり、平生は人のぬくもりに触れず「個々で生きている」と感じることが多いのではないでしょうか?そんな中、今年も十月末のハロウィンではたくさんの人が仮装して街に繰り出しました。一部の人が暴徒化して、器物破損、暴行、痴漢等の犯罪が頻発して問題視されていますが、大部分の人は「人のつながりがほしい」「非日常を体験したい」という思いで参加されているようです。私自身、以前、中国に留学してまもなくの時に仮装してハロウィンパーティーに参加したことがあります。私は全身緑色に塗られて河童の仮装をしました。恥ずかしかったのですが、人のやさしさに触れ、皆で楽しく盛り上がったことを今でも鮮明に覚えています。それまではなかなか友達もできず、孤独な毎日を過ごしていましたが、仮装をきっかけに内外問わず友達もたくさん出来ました。そしてあの時のぬくもりが今でも懐かしく、再び実感したいと思っています。私たちはみな人のぬくもりを実感したく、知らずのうちに常に求めているのです。

 

ぬくもりを頂くためにはまず仏様のぬくもりを頂くことです。お釈迦様は『仏心は大慈悲これなり。どんな人も見捨てずに幸せにする』とお示しです。お寺にお参りして仏さまのご尊顔を拝したり、お釈迦様のお言葉に触れることによってぬくもりを感じることができます。欲に絡めとられている自分に対して仏様の大いなる慈悲を受け取ることができます。

 

そして他人からぬくもりをいただく為には、私たちがまず誰かを暖めてあげることも大切だと思います。暖めるという意味の中国語は「暖和」と書きます。文字通り、人から暖かな親切を受けたら心が和らぐのです。そして今度は自分がその人に対して、もしくは他の人に対して親切をしようと善い連鎖が起こります。人に温もりを与え続けたらば、回りまわって、自分がいろんな人から温もりをいただける環境が出来上がるのではないでしょうか?

曇り夜も月は輝いている  浄土宗カレンダー平成三十年十月のことば

 今年の十五夜はあいにくの曇り空でした。しかし本堂の窓から時々見える満月を有り難く頂戴して、しばしの間、おつとめをいたしました。お月さまの光は仏様のお慈悲によく例えられます。月を鑑賞しながら、仏様のお慈悲を頂くことによって、心が豊かになり、有縁の方にも幸せをおすそ分けできることを信じて、木魚をたたきお念仏を申しました。

 

お月さまは太陽の光を反射して、地球に住む私たちにその光を届けてくれています。

お釈迦様や阿弥陀様といった仏様は普遍的な真理を見出して、慈しみの心をもって私たちにその真理を教えてくださっています。しかしお月さまはいつも輝いているのに、しばしば雲に隠れることによって、その姿を見られないことがあります。同じようにいつも私たちをご覧くださっている仏様やご先祖様の存在が私たちの眼には見えなくなる時があります。それは私たちの煩悩(自己中心的な欲)という雲によって仏様の存在をかき消してしまうからではないでしょうか?

 

最近の私たちは自分の欲望ばかりを追求して、「上や水平を見ないで下ばかり見ているのではないか」とよく思うのです。例えば私自身、スマホばかりを見て、その中の情報やコミュニケーションにとらわれすぎているなあと感じます。 電車に乗っていても、空の色や、電車の窓から流れる景色、また周りの乗客のことなど見ることが少なくなっています。また上から目線を極端に嫌い、何か失敗した人や犯罪を犯した人に対しては「自分より劣っている、下だ」と位置づけして、皆でその人を責める風潮になっているかもしれません。昔の人は空模様を見て、今後の天候を予測し、そして人間よりはるかに強いエネルギーを持っている自然に対しては畏敬の念を持っていたことでしょう。そして人知を超えた神様、仏様のお姿を仰ぎ見てその存在を意識して、周りの人を敬いあって、慈しみの思いで生活されていたと思います。一九五〇年代に当時の小学生が書かれた詩を紹介します。

 

 

まんげつ

五時だ。おつきさんがまんまるだ。きょうはまんげつだな。

きれいだな。なかのかわらへ、ねぎを取りに行く。

「おとうさん、まんげつだよ」「きれいだね」

ねぎをあらう時、まんげつをこわさないようにそっと洗う。

ねぎにまでうつるきれいなまんげつ。いつもこんなだといいなあ

 

まんげつをこわさないように、仏様やご先祖様が悲しまれないような生活をしたいと思います。仏様やご先祖様は自分も周りもいたわる方々です。その方達が悲しまれる行為とは自分や周りを大切にしないことではないでしょうか?自分の煩悩に振り回されすぎなよう、上にいる仏様やご先祖様、同じ目線の周りを意識して共々に精進してまいりましょう。

あの人の恩 ありし日を思う 浄土宗カレンダー平成三十年九月のことば

 今年の夏は今まで体験したことのないような暑さに見舞われ、また豪雨、台風などの災害も多くありました。

自然災害の増加と共に、年々、凄惨な事件が増えているような気がします。

過去から比べますと事件数は減少傾向にあるようですが、事件ひとつとっても、殺人に至る動機や凶悪さ、加害者の普段の姿とのギャップなど看過できないものがあります。

 

六月に新幹線内で起きた殺傷事件も然りです。

二十二才の青年が突然となりの女性に襲い掛かり、止めに入った男性を死に至らしめた痛ましい事件でした。青年の罪を犯した動機は「むしゃくしゃしていたから。誰でもよかった」という一般的には理解に苦しむものでした。

しかし、報道されている青年の過去や親御さんのコメントなどを見ていると、どこか周りの青年に対する愛情が欠落しているような印象を受けました。

 

こういう事件があるたびに私は、ただ単に加害者を糾弾するのではなく、自分自身の性格や人生を見つめる機会にするようにしています。

私自身、大きな爆弾を抱えていると思っています。何か悪いきっかけさえあれば、抑えていた感情が暴発して他人を傷つけてしまうかもしれない。もしかしたら加害者と同じ境遇なら自分も同じ過ちを犯したかもしれないと思うのです。

そして今まで紆余曲折はあったものの、今、何とか大きく道を踏み外さず生きてこれたのは、両親をはじめとして今まで御縁のあった方々の力が多分にあると思うのです。

 

恩という字は恵みとも読めるそうですが、恩の上の部分(因)はむしろの上に大の字に横たわっている人の姿を表しています。

私たちは毎晩布団の上で大の字で、つまり安心して寝ることができるのは、知らずのうちに色んな恵みを受けているからではないでしょうか。

恩の字の下部は心ですが、たくさんの人が自分に心を掛けてくれるから自分は安心して、まっとうに生きていくことができていると私は受け止めています。

じっくりと考えますと、「亡くなった父にこう教わったなあ、あのお檀家さんにも生前本当に支えて頂いたなあ」と思うことが多々あるのです。

先述の新幹線事故で犠牲になった梅田さんは幼少の頃から正義感にあふれ、いじめを防いだり、穏やかで周りの人に気遣いができる人だったようです。ご本人の努力ももちろんのこと、きっとご両親や周囲の教育も多分に影響しているのではないでしょうか?

 

 

 『受けた恩は石に刻み、受けた怨みは水に流せ(受恩刻石、受怨流水)』と言う言葉があります。昨今は逆に、怨みを引っ張り、恩を忘れているお互いではないでしょうか?

先立ちし人がどれだけ自分の人生に良い影響を与えてくれたのかを思い返し、お釈迦様のお言葉にしたがって、慈しみのある生活をしたいものです。

極楽浄土に思いを馳せる 浄土宗カレンダー平成三十年八月のことば

 阿弥陀仏様が建てられた西方極楽浄土とはどんなところでしょうか?

一言でいえば私たちが住む世界と真逆の世界であります。つまり極楽浄土に思いを馳せる前に、まずは私たちの世界を見つめる必要があるのではないでしょうか?

 

私は二十数年前にはじめて海外旅行に行きました。その後短期の留学や出張も含めて定期的に日本国外へ出かけるようにしています。もちろんその国に興味があっての事ですが、海外に出かけると、住み慣れた日本のことがより一層理解できる気がします。

同じようにこの世を外から見ることができればいいのですが、あいにくさとりを得ていない私たちにはこの世を俯瞰することは不可能です。しかしながら、この世を解脱されて仏となられたお釈迦様は私たちが住む世界を「思い通りにならない苦しみばかりの世界」とお示しです。

この世界を「忍土」、つまり耐え忍ばなければならない世界ともお示しです。

 

たしかに美味しいものを食べたり、旅行、趣味、家族や仲間との交流等楽しいことも多々あり、この世を生きる糧にもなりますが、それらが一時的な満足であったり、いつかは手放さなければならないものでもあります。また無慈悲に起こる天災や避けなれない老病死があり、お互い思い通りにしたいが故の諍いや戦争も必ず起こりうる苦しみの世界であります。

 

一方で極楽浄土について、お釈迦様は「その国で生活している者は、いかなる苦しみを受けることはなく、安らぎのみを享受できる、だから極楽と言うのです。」とお示しです。

本当の安らぎとは私たちが普段から求めている一時的な快楽ではありません。仏様のお説法を心地よく聴聞して、お互い善い行いや思いやりのある言葉を発して、慈しみ合うことによって得られる安らぎです。例えば私たち大災害があるときにはボランティアや救援物資を送る等被災地のために一時的に皆の心が優しくなり力を合わせ、お互いを慈しみ合うことができます。その状態が恒久的に続く世界が極楽浄土であります。

 

冒頭の話に戻りますが、旅行の計画を立てた時に、その旅行を楽しみにして当日までより張り合いの有る生活を送られた経験はありませんか?

同じようにこの世を生きていくことはしんどい時も多々ありますが、「この世での命を終われば苦しみのない極楽浄土に生まれることができるのだ」という強い意志をもってお念仏を携えて生きていくことによって、この世での生き方も変わってくるのではないでしょうか?

 

倶会一処(くえいっしょ) 浄土宗カレンダー平成三十年七月のことば

 

皆さんはどのような相手に対して「この人ともう一度お会いしたいなあ」と思いますか?あるいはどのような人の集まりの会にもう一度参加したいなあと思いますか?

 

性格が合う、趣味や好みが合う等もありますが、個人的には性格の穏やかな人や他人への気遣いができる人、自分の知らないことを教えてくださる人に魅力を感じます。逆に、自分の事ばかり考えている人、常に怒っている人、他人を責めている人 、悪口ばかりを言っているグループ等とはできるだけ縁を持ちたくないなあと思います。なぜならば、悪縁に触れることによって、自分自身の行いも悪くなり、心も曇っていき、不幸な人生を歩むかもしれないからです。

 

だからこそ、この世でもできるだけ良縁を探すことも大切ですし、そして来世は善人ばかりの世界に生まれることを願いたいものです。

そのことについてお釈迦様は『阿弥陀経』に説き示しています。

 

「衆生は極楽浄土に生まれたいと願うべきである。何故ならば優れた善人たちと倶(とも)に一処(いっしょ)(同じ場所)に会い集うことができるからである。」

よく墓石などに刻まれている「倶会一処」という言葉はこのお経に由来します。

極楽浄土に住まれている菩薩さま方は、我欲を出すことなく、常に自分だけではなく他人のこともお互いに考えている善人であり、日々、争いなく幸せな気持ちで仏道修行に励まれています。この世でお念佛を申すことによって、私たちもその世界に生まれ、自分自身も善人の菩薩となることができるのです。

私が一番有り難いと思うのは、この世で折り合いがうまくいかなかった親(ちか)しい人とも極楽浄土ではお互いの我欲が消えることによって仲良くなれることです。極楽浄土は謝罪し許し合える世界、お互い認め合える世界、そしてお互い慈しみ合える世界だからこそ、そこに生まれることを目指すのです。

 

昨年亡くなった父とは、私のつまらないプライドのせいで、ほとんど口も利くことなく、父の親切も疎ましく、反発ばかりしていました。しかし父が亡くなりますと、父から受けた恩が身に染みてわかり、後悔ばかりしています。

 

お念佛を申すことによって、来世は極楽浄土に生まれ、一足先に菩薩になった父と再会して娑婆世界での罪を謝ることができ、仲良く暮らしていけることは間違いありません。その明るい未来を心の支えとして、現世では父から受けた恵みや父に対してできなかったことを他人に施し、お念佛とともに精一杯生き抜きたいと思います。

 

 

人柄はその一言にあらわれる 浄土宗カレンダー平成三十年六月のことば

梅雨の季節になりました。雨が続くと気持ちが滅入りますが、慢性的な水不足に悩む地域や植物を育む大地にとっては慈しみの雨となることでしょう。

お釈迦様の教えでは「愛語」と言って他人に対して慈しみの言葉をかけることを善行とします。実際に、そのことを心がけている方と接しますと「この人はなんて素晴らしい性格なんだろう」と感心してしまいます。

また同時に普段より慈しみの言葉を発することができていない自分の内面が恥ずかしくなります。心を入れ替えようとしても一朝一夕では到底できません。だからこそ愛語の行いを続けていくしかないのであります。

 

 

日本球界が生んだ野球界の至宝であり、現在もアメリカ大リーグで活躍を続けているイチロー選手にまつわる一つのエピソードを侍ジャパンの元監督である小久保裕紀氏が紹介してくださっています。

小久保氏が現役時代、本塁打王になったときに勘違いして天狗になって、翌シーズンの成績が散々だった時があったそうです。そのときに三年連続の首位打者に向けて好調を維持していたイチロー選手に「モチベーションが下がったことないの?」と聞くと、イチロー選手はこう答えたそうです。

 

「小久保さんは数字を残すために野球をやっているんですか?僕は心の中に磨き上げたい石がある。それを野球を通じて輝かしたい」

小久保さんはその言葉を聞いて自分を恥じると同時に「野球を通じて人間力を磨く」というキーワードを得たそうです。

 

このイチロー選手の考え方は仏教に通じます。

お釈迦様は、とにかく善行を繰り返し、習慣にすることによって、心が磨かれてやがて煩悩がおさまり苦しみが消え、平穏が訪れる、とお示しです。

何もせずにいきなり内面を磨くのは難しいことです。そのためのはじめの一歩は優しい言葉を選ぶことです。逆に相手を傷つけるようなきつい言葉を発することは自分の心を曇らせ、やがて荒廃していき、乱暴な言葉を言うことに何の疑問も痛みも感じなくなっていくことでしょう。

 

昨今は自分をほめ、他人を言葉で貶し合う風潮が強くなっている気がします。

「自分に対して正直になるのがいい」という言葉を取り違えて、言葉を選ばすに他人を傷つけることは避けるべきではないでしょうか?私自身、腹立ちの心はもっていても、できる範囲で慈しみの言葉を発して、心を磨いていきたいものです。

 

心の弦 張りすぎず ゆる過ぎず 浄土宗カレンダー平成三十年五月のことば

 緑鮮やかに、気温も過ごしやすい季節になってきました。日本には四季があり、厳寒の冬。灼熱の夏とそれぞれの良さはありますが、やはり両極端でないこの時がまさに心地よいものです。

 

 お釈迦様は、世間の人々が、避けられない苦しみから目を逸らし、快楽ばかりを求めている姿に疑問を感じ、本当の幸せを求めて出家されました。同じように悟りを求めて修行をしている者の中には、断食や痛みに耐えるなどの苦行に励んでいる人もいました。

 

お釈迦様も長年、そのような難行苦行をいたしましたが、「こんなことで本当に悟りを開けるのか」と疑問を持ち、苦行を捨てて、本当に必要で適切な行をして、悟りを開かれました。 このご自身の経験を経て私たちにお伝えしてくださったことは、「快楽と苦行の両極端にならず、継続して幸せになるための行いをしなさい」ということです。例えて言うならば琴は弦が張りすぎても緩すぎてもいい音が出ないようなものであるとお示しです。

 

 私事になりますが、年齢を重ねるに伴い、運動量も減ったこともあってか体重がどんどんと増えていきました。そのせいかダイエットの情報には敏感になりましたが、以前テレビで糖質軽減ダイエットが紹介されていました。要はお米などの糖分を控えるということですが、これもただ単に炭水化物を摂取しないということではなく、間違った方法で行えば逆に疲れやすくなり、骨粗しょう症などの病気になり、返って健康を損なうとのことでした。何より大切なことは、事細かく神経質になりすぎるとダイエット自体が続かなくなるから、ある程度は気にしなくていいということでした。

 

 お釈迦様は「生き物の命を慈しみなさい、嘘や悪口は控えなさい、お酒も控えなさい」とお示しです。しかし私たちが少しも怒ることなく、無駄な殺生もせず、悪口も言わずに完璧に生きていくことは不可能です。そんなに厳しい教えだと誰もが敬遠するでしょう。そうではなくて、お釈迦様は、やむを得ず破ったならば、懺悔をしてまた次回から守れるように心がけなさいとも仰っています。要は続けて精進していくことが大切なのです。何事もできる範囲で仏教を実践していきましょう。最後に種田山頭火さんがそのことを端的にお示し下っている言葉をご紹介いたします。

 

 今日一日、腹をたてないこと

 今日一日、嘘をつかないこと

 今日一日、ものを無駄にしないこと

天上天下唯我独尊 浄土宗カレンダー平成30年4月のことば

 今年もうららかな春がやってまいりました。四月は仏教徒にとって大切な日がございます。仏教の開祖であるお釈迦様(釈迦牟尼世尊)は旧暦の四月八日にルンビニ―の地でお生まれになりました。その時に七歩あゆんで冒頭の言葉「天上天下唯我独尊」を発したと伝えられています。もちろん生まれたての赤ちゃんが歩くわけはないし、言葉を発することはありません。しかし伝説というものは真偽に関わらず、今まで伝承されてきた所以、つまり本質をしっかりと受け止めることこそが肝要であります。

 

まず七歩あゆまれたということは六道という苦しみの世界から一歩抜け出すことを意味します。そして「天上天下唯我独尊」のあとにお釈迦様は「三界皆苦、我当安之」と仰いました。つまり「天の上にも下にも我一人尊い、なぜならばこの三界(人間界も含めた苦しみの世界)は皆思い通りにならない苦しみの世界で、その三界で苦しんでいる人に安らぎを与えるために私は生まれてきたからです」ということです。

 

この言葉を聞いて「お釈迦様は何か傲慢だなあ」と誤解してはいけません。むしろお釈迦様は一国の王子にも拘わらず、謙虚に煩悩多きご自身の姿を受け止め、精進されたからこそさとりを開かれたのです。お釈迦様の大切なメッセージは「私は苦しみの世界から抜け出すことができたから、私の言うことを信じて実践すれば、皆様も必ず幸せになれますよ」ということです。

 

 私たちはどうしても頭でっかちになり、経験していないことや実証されていないことに対して信じることができません。しかし私たちがなぜ両親や目上の人や先生の言うことに耳を傾けるのでしょうか?それは先達だからです。私たちが経験していないことを経験しているからです。お釈迦様も自分の前世や死後の世界など私たちが経験していないことを経験されお悟りを開かれたのです。ですから敬うべき人をしっかりと敬い、その人の言葉を信じ習うことは幸せへの道であります。ともどもに春の穏やかな日をしっかりと過ごしましょう。 

 

 

あゆみの速さ人それぞれ 浄土宗カレンダー平成30年3月のことば

 23年ほど前、なかなか自分の思い通りに事が進まず、半分逃げるような形で、初めて海外旅行をしました。中国の上海にフェリーでわたり、そこから内陸のほうに行こうと思っていました。

 

しかし降り立った上海の地で、日本での便利な生活しか知らなかった私はあまりにもギャップに面食らい、コミュニケーションも満足にはかることができず体調を崩してしまいました。ホテルで引きこもっていましたが、空腹には勝てず一軒の食堂に入ってラーメンを食べました。

 

ラーメンいっぱい注文するのにも手間がかかりストレスを感じたなか、温かく量の多いラーメンを食したら、心がちょっとずつ落ち着いてきました。帰るときに、食堂のおばさんが「慢走」と声をかけてくれました。 「慢走」とは日本で言うなら、店の人がお客さんに対して、帰るときに「お気をつけて」という常套句のようなものです。

漢字をそのまま訳すと 「ゆっくりいきない」 となりますが、なぜかその時には大変その言葉が骨身にしみました。

 

振り返ると、常に周りと比べて焦っていた自分、自分にないものを他人が持っていることに妬み心を起こしていた自分、背伸びしていた自分がいて、気が付けば自分を見失っていたかもしれません。自分の内面と向き合わず、他人の眼ばかりを見ていたかもしれません。  そうではなくて、自分のペースで今自分ができることをしていけばいいのだ と気づいたときになにかとても心が軽くなった気がします。

 

 それぞれの人生を過ごす中で、例えば「諸行無常」や「愛別離苦」といった仏様の教えにしても、受け止める時期は人それぞれです。大切なことはゆっくりでもいいから継続して歩み続けることではないでしょうか 共々に精進いたしましょう

 

 

やさしい言葉を贈ろう 浄土宗カレンダー平成30年2月のことば

 やさしい言葉を贈る行為は「愛語」といって仏教で大切な布施行です。布施行は相手の為ではなく、自分の為の行であります。 お釈迦様は「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ」とお示しです。暴力的な言葉や心もとない言葉、また相手の状態を考えないで正論を真正面からぶつけることは相手だけではなく、自分の心も荒れさせることになります。そして仏教において、「やさしい」とは単なるやさしさではなく「慈しみ」を意味します。慈しみの言葉とは相手の苦を抜き、相手に楽を与える言葉です。まずその事を第一に考えねばなりません。

先日新聞記事で阪神淡路大震災で奥さんを亡くされたAさんのお話が掲載されていました。Aさんのご自宅では2階にご夫婦の寝室があり、普段はそちらでお休みになられていたそうです。震災が襲った日はたまたま1階のこたつで寝ており、Aさんが散歩に出ようと玄関に立った瞬間に、激しい揺れが襲い、2階が崩落したそうです。奥さんは下敷きになるなかで「明るくなったら助けに来てください」とAさんにお願いされました。近所の人の助けを借りて助け出そうとしたが、火の手が上がり、その場から離れざるをえなくなり、奥さんはがれきの中で亡くなったそうです。周囲から「がんばれ」と言われる励ましの言葉がつらく感じ、こう仰っています。「がんばれるものが残っていない人には残酷な言葉です」

 私たちはよかれと思い、相手を傷つけないように言葉を贈りますが、相手の状況によってはかえって傷つけて苦しめてしまうこともあります。もちろん当事者でなければわからない気持ちもありますが、今苦しんでいる人に対してどのような言葉をかければ、想像力をできるだけ働かして、自分にも相手にも慈しみのあるやさしい言葉をかけたいものです。

 そして浄土宗で大切にしている「南無阿弥陀仏」のお言葉もまた慈しみのある大切な言葉です。

なぜなら、自分や誰かの為に南無阿弥陀仏と申すことによって、阿弥陀様のお慈悲の力によって、自分もまた有縁の人も来世ではこの苦しみ迷いの世界から離れることができるからであります。

 共々に愛語を心がけて日々過ごしましょう。

 

願う心は道をつくる 浄土宗カレンダー平成30年1月のことば

 

 また新しい年がやってまいりました。一つ年を取り、死に近づいていることは間違いないですが、何はともあれ新しい年を迎えることができたことに感謝したいものです。

 新年を迎え初詣に行かれた方もいらっしゃるでしょう。近くの神社では年々参詣者が増えているようです。それだけ世相が不安定なのかもしれません。皆様の今年の願い事は何でしょうか?「健康」「就職、進学」「出世」等あろうかと思いますが、ただ願うだけでは成就しないことはよくよくご存知だと思います。そのそれぞれの願いにむかって、自分が今できることをこつこつ行うことによって、道ができて目標に近づいていくのではないでしょうか?例えて言うならば、草だらけの原っぱを、一日一日草を刈り取りながら原っぱの向こうの目的地に進むようなものです。

 

 それはそれで大切なことではあるけども、一方で先人たちが作った道をたどることも大切です。特に仏さまが作られた幸せへの道を歩むことは、自分で道を切り開くよりよほど楽ではないでしょうか?

仏様は私たちが苦労しないように、私たちの幸せを願い道を切り開いてくださいました。

佛教をお開きになったお釈迦様も「過去にさとりの開いた仏様方がたどった古道を発見した。その道にしたがって進んでいき、どうやって苦しみを克服するかを知り実現させたのだ」と仰っています。

 肝心なことは、お釈迦様の仰せどおり(古道)に、「無駄な殺生をしない、嘘をつかない、人を傷つけない」などの行いや南無阿弥陀仏のお念仏を申すことによって、苦しみのない幸せ(目的地)に向かうことです。また古道を歩かなければ、その道は雑草が生い茂って隠れてしまい、あとの人が通れなくなれます。そうならないように私たちが仏教を実践して、次の世代に伝えることによって、またその人たちも本当の幸せへの道を進めるのではないでしょうか?ともどもに精進いたしましょう。

 

はらはらと無常を告げる落ち葉かな (月訓カレンダー2017年11月のことば)

今年も紅葉の季節がやってきて終わろうとしています。私たちは木々に付いている鮮やかな赤に魅了され、一方で散っていく姿にもの悲しさを感じます。それは咲いてから散るまでの一連の流れに、私たちの一生を重ね合わせるからではないでしょうか?

私たちも今は鮮やかな赤色のように、快活に日々暮らしていますが、いつかは必ずこの人間界から離れていかねばなりません。その日が今日、明日かもしれないし、ずっと先かもわかりません。

 

 秋風にあへず散りぬるもみじ葉の 行方定めぬ我ぞ悲しき (古今和歌集)

 「秋風に耐えれなくなって散っていく紅葉がどこにいったかわからないように、行く末の分からないわが身が悲しいことです」

この命終わったあと、どうなるかわからないことは大変不安です。また先だった大切な人がどこにいってしまったのか確信がもてないことは大変なストレスではないでしょうか?

 阿弥陀様におすがりして平生から『南無阿弥陀仏』とお念仏をお唱えすることによって、来世は苦しみのない極楽浄土に生まれることは必定です。逆に言えばお念仏をお唱えしていなければ、人間界すら生まれることはできず、もっともっと苦しみ迷いの世界に行く可能性があります。

 ゴールをまず定めることによって、この生を精一杯力強く生き抜くことができるのではないでしょうか?葉っぱが散ってもまた新しい芽が出てくるように、この命終わっても

また新しい世界で命を授かることができます。命は連続しているのです。

 

 私事ですが、5年間の闘病の末、先月1日に父が往生しました。この喪失感は事前に想像できなかったくらい大きいものでした。なかなか立ち直るのに時間がかかりそうです。

しかし父は75年の生涯において、苦労する姿、喜ぶ姿、病になって命終わっていく姿、

そしてお念仏する姿を私に見せてくれました。

 この娑婆世界で再会することはできませんが、父は今お浄土に生まれて私を慈悲のまなざしで見てくれています。私もいずれこの命終わったときにはお浄土に生まれて父に再び会うこと、そしていい報告ができるように精進したいと思います。

 

この世も来世もよりよい幸せを得ることができるよう共々に日々過ごしていきましょう。

 

日々精進 ご先祖様に守られて  (月訓カレンダー2017年8月の言葉より)

お彼岸の季節がやってまいりました。「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが、仏道修行をするにももってこいの気候となってまいりました。

 

このお彼岸の時期は特にお彼岸、つまり苦しみのない極楽浄土を意識して、来世はお浄土に生まれることができるようにそのための行を特に有り難く受け止める期間であります。

 

その行とは まずは「南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏を申す事、そして第2に仏教の基本である施しや忍辱といった戒を守ることです。

どんな行を行うにせよ大切なことは『精進』すること、つまりその日できなかったとしても落ち込まず「明日はがんばろう」と繰り返し続けていくことです。

 

 新聞の投稿欄に18歳の花澤さんという方の記事が載っていました。

小学5年生のときにお母さまをがんで亡くされました。お母さまの死によって、お母さまの存在、親が作ってくれるご飯やお弁当など当たり前のことなんて一つもないことに気づかれたそうです。そしてその花澤さんが大切にしているお母さまのお言葉が「一度始めたことは最後までやりきる」です。

 

このお言葉を常に胸に抱くことによって、つらいことがあっても乗り越え、花澤さんは今、夢に向かって頑張れているとのことです。文の最後で花澤さんは「母は背中を押してくれるにちがいない」と締めくくっています。

 

花澤さんは日々努力をしておられます。そしてお母さまのお守りをいただき、精進されています。

 

私たちは先立ちし人の供養をすることによって、極楽浄土に生まれたその方たちといつもつながることができます。目には見えなくても、いつも私たちに応援のメッセージを発してくださっています。「こういうことしたら父は喜ぶだろうな」「今の自分の姿を見たら母は悲しむだろうな」と常に意識して、未来に向かってともに無理なく精進したいと思います。

 

こだわり捨てて心のびやか (浄土宗カレンダー 2017年4月のことば)

『ヒトラーの忘れ物』という映画を見ました。

戦時下にドイツ軍によってデンマークの海岸に埋められた無数の地雷を、イギリス軍が捕虜のドイツ少年兵に処理をさせるという映画でした。

その中で厳しい態度をもって少年兵を監督するデンマーク兵の心の変化が描かれています。彼はナチスドイツ軍は憎いが、直接関係のない少年兵に死と隣り合わせの爆弾処理をさせて戦争責任を負わせることに疑問を感じたのです。やがて少年兵と心を通わし、犠牲になった少年兵の死を思い、祖国へ帰りたいという彼らの思いを叶えてあげるのです。

 

私たちには「自分はこうしたい 自分の思いはこうだ」という執着(こだわり)という煩悩があります。こだわりをなくすことはできませんし、生きていく上である程度のこだわりは必要かもしれません。しかし自分の思いにこだわりすぎると時には人を傷つけて、自分をも苦しめるのです。このデンマーク兵も、ドイツへの憎しみというこだわりを小さくしたことによって、少年兵を救うことができたのではないでしょうか?

 

自分の思いによって、自分にとって都合のいい人間としか付き合っていないか?視野を狭くしていないか、人を傷つけていないか?という日々の点検が必要なのかもしれません。

不要なこだわりを捨てることで、心の器が大きくなり、より心が健康になると信じて

心の点検作業を進めていきましょう。  

 

「佛の教えたまふ趣(おもむき)は、事にふれて執心(しゅうしん)なかれとなり」(鴨長明)

 執心=執着心:こだわりの心

大切な人 あなたのことは忘れない (浄土宗カレンダー 2017年3月のことば)

「あなたにとって大切な人は誰ですか?」という問いかけに対して、誰を思い浮かべますか? お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、子供さん、お友達 などなど

この問いかけによって改めて、自分のかかわりのある人について一人ひとり考えられる機会かもしれません。 

 

 しかし私たちが挙げた人に共通することは、おそらく「いま生きている人」ではないでしょうか?私自身ももちろん先立ちし祖父母やお檀家さんのことは忘れていませんが、どうしても今生活していることに目を向けがちで、そしてその中で関係性を持った人について「大切か、大切ではないか」を判断している傾向があります。しかもその判断基準は「自分にとって都合がいいか悪いか」になっている場合があります。それを認めた時に

自分の至らなさに気づき、「この人から学ぶこともたくさんある」と心がけるようにしています。

 

 亡くなった人になかなか想いが行き届かない至らない我々に対して、仏さまやお浄土の住人となられた先立ちし人(菩薩と言います)は常に私たちにメッセージを発してくださっています。仏さまを含めた極楽浄土に住む方には神通力が備わり、私たちの声や行動をよくよく知ってくださっています。 そしていつもメッセージを発してくださいます。

どれだけ私たちがこの世で大人になって、いろんなことを経験して知識を得たとしても、仏さまや亡き方々はいつまでも私たちを育ててくださいます。

 

ですので、私たちも常に亡くなった人を思い、その方たちの声に耳を傾けて、今自分の行っていることが本当にすべきことなのかを確認する生活を続けたいと思います。

 

 「衆生、佛を念ずれば、佛も衆生を念じ給う」(善導大師)