一口法話

当り前とおもうあやうさ 浄土宗カレンダー令和五年七月のことば

あたりまえの対義語は有難し(そうであることが難しい)です。

真理に目覚めたお釈迦様のお言葉を受け止めると、私たちが当たり前と思っていることは、実際は有難いことが多く、逆に有難い、ありえないと思っていることの多くは当たり前なということがわかります。

 

〇当たり前のこと(私たちがあり得ないと思っていること)

 *六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の存在。私たちは六道を輪廻している

 *善い行いをすれば喜びの報いを受け、悪い行いをすれば苦しみの報いを受ける

 *欲望のままこの世を生きている私たちはこの世でも来世でも苦しむ。善い行いをしなければ来世にお浄土や天国、人間に生まれることは難しい

                                など  

 〇有難いこと(私たちが当たり前と思っていること)

*前世の善い行いによってこの世で人として生を受けたこと

*色んな人のおかげで衣食住が整い、日々平穏に暮らせること

*仏縁を結ぶことによって来世、いい世界に生まれること、この世で縁のあった人たちと来世で一緒に過ごすこと                       など

 

 

幸せの定義の一つは 「気づくこと」とある人に教わりました。震災、愛する人の別離、コロナ禍の生活等を通じて、家族の存在や日々の有難さに気づく事ができました。同時に自分の至らなさに気づき、その私を忘れずに導いてくれる仏様や先立ちし人のまなざし、声に気づくことができました。平生に戻ることによって人間はその気づきを忘れてしまいがちですが、亡き人の供養を通じて、当たり前ではないことを思い出すことができたらいいなと心がけたいものです。

 

こころ耕す なむあみだぶつ 浄土宗カレンダー令和五年六月のことば

ある本に「差別する心をなくすことは不可能だ。でもそれを態度や言葉に出さないことは可能である」と書かれていました。

確かに、恥ずかしい話ですが、差別はいけないとはわかっていますが、心の中では反射的に「外国人は」とか「女性は」とついつい思ってしまう自分に気づかされます。しかしそれを表面に出さないよう努力はしています。

神仏にすがる心も全く同じです。「私は信仰心がありません」とよく耳にしますが、最初から充実した信仰心をお持ちの方はいないと思います。私自身もまだまだ信仰心は足らないと思います。

 

 

ただ私は来世の行き先を苦しみのない極楽浄土というゴールに行くと決めています。そのために「南無阿弥陀仏」を申し続けています。

そのことによって、荒れた畑が柔らかく耕されるように、凝り固まった自分の心がほだされていく感じがします。

つまり、自分は間違ったことをしてない、自分はまっとうな人間だと思っていたけども、実は利己的な心に覆われ、偏った見方をして、知らずのうちに人を傷つけていることに気づかされるのです。

そして至らぬ自分に気づいたならば仏様にすがる気持ちが強くなるのです。

観光や御朱印巡りでお寺にお立ち寄りの際はぜひぜひ、ご本尊様の前で手を合わせて祈りを捧げて頂ければありがたいです。その行為によって必ず心は耕されていきますから。 

 

 

 

 

 

ゆっくり休んでまた動き出す 浄土宗カレンダー令和五年五月のことば

車で一般道を運転していますと、青信号ばかりだと気分よくスイスイ走れますが、必ずいつかは赤信号に遭遇して停まらなければなりません。急いでいる時はイライラすることもありますが、停まることで返って高揚した気持ちが抑えられて冷静になることもあります。

 

人生もまた然りです。時には休むことが必要です。特に思い通りにならないときこそ動くことを一旦やめて、頭を整理して思考を巡らせるチャンスです。

現実逃避してゲームをしたり、旅行に行ったり、読書や映画鑑賞、ゴロゴロしたり、体の休み方は様々です。一方で思考は停止していませんから、ぼんやりと考えるなかで新たな気づきがあります。

例えば、こちらが赤信号の時は一方が青信号で道を横切ります。そのことによって自分一人で生きているわけではない、お互い様に不都合を抱え、また恩恵を受けていることに気づきます。そして再び自分のペースで自分、他者、社会のためにできることから少しずつ始めようと決意できます。一番大切なことは、そんなもがき苦しんでいる自分を慈悲の眼で見守っている方が必ずいる真理を忘れないことです。その見守ってくださる方とは両親、子供、友達、そして仏様や先立ちし大切な方です。

 

 

私自身、阪神淡路大震災の時、留年して海外に逃避した時、会社で失敗ばかりして怒られっぱなしだった時など立ち止まってばかりです。そして今も大切な人を失って未だに目先のことしかできずに、新しくやりたい事に取り掛かれていませんし、他者のお役に立つ生き方をしていません。それどころか逆に周囲を傷つけてばかりいます。そんな私の姿を見て、いつかはまた歩き始めてくれるだろうと、怒るでもなく慈悲をもって気にかけてくれる母、姉妹、友達がいることに気づきました。そして何より仏様は私をけっして忘れることなくお見捨てになりません。そのご恩に報いるべく、今は充電期間と捉えて、日々ちょっとずつ歩みを進めたいと思います。

 

 

 

 

思いから行いへ 浄土宗カレンダー令和五年一月のことば

知恩院御影堂へと続く女坂を上りきる手前に仏教詩人坂村真民氏の句碑があります。

そこには氏の有名な 「念ずれば花開く」が刻まれています。

「念ずれば花開く」という言葉の意味は もちろん単純に思い続けていればいつかは夢がかなう」ということではなく、「思いを強く持って継続して努力すればいつか報われる時が来る」と受け止めています。

 

新年、新聞の読者投稿欄を見ても、今年こそはと各人の強い思いが綴られています。そしてその思いを成就せんが為に、具体的に○〇をすると示されています。有言実行の大切さ、難しさは私自身も毎年経験しています。しかしそれでも思いは持ち続けないといけません。

 

「念」という字は今の心とも受け止めることができますが、本来、この今という字は蓋、覆うものという意味です。

心を覆うとはつまり「忘れない」ということです。もちろん忘れていいこともたくさんありますが、私たちは忘れてはいけないことまでついつい忘れがちです。

人間にとって忘れてはいけない大切なことは「世間は無常である、そして人は必ず死ぬこと」や「人から受けた恩」「いつも誰かが見てくれている」等の真理です。

個人的に一月は妻の命日があり、お檀家さんの命日も多く、そして怖い思いをした阪神淡路大震災の発生もありました。

一月が来るたびにとても悲しい気持ちになりますが、苦の経験を思い出すことで、人間的に成長しようと改めて決意することができるのです。

そして成長するための行いをしていけるのです。

 

新しい一年を迎え、確実にこの世を離れる時が近づいていることは明白です。

右記の真実を常に忘れず命ある限り共々に精進したく存じます。